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常設展示のご案内

史料館の展示物を順を追ってご紹介していきます。


明治初期の若松港の絵

明治初期、若松村が臨む洞海湾は、東西20キロ、南北の広いところで2キロ、狭いところで100メートル、港内から港外に至る間の水深はわずか1.5メートル内外であった。したがって干潮時には、港内はほとんど地肌を見せ、随所に岩盤が露出していたという。

当時洞海湾は若松港と呼ばれ、洞海湾と運河で結ぶ遠賀川の上流一帯で産出される石炭を積み出す要港であった。

明治24年2月1日町制がしかれ、若松村は若松町となる。同年8月30日、筑豊興業鉄道の開通によって「石炭の町」として急速な発展を遂げることになった。

この絵は明治27年頃の若松町風景で、高い煙突の下一帯が当時若松町でただ1つの工場としてその存在価値を誇っていた。

明治20年代に入ると若松を中心とした筑豊地区には、炭田を一層開発するために、鉄道の敷設に合わせて洞海湾の築港開発を推進しようという気運が盛り上がっていた。洞海湾の重要性に着目していた筑豊五郡坑行組合総長の石野寛平は同志30余名とともに浚疏会社創立を県に上申、若松築港会社を設立し若松港の築港設計に着手した。

明治23年5月23日若松築港会社に県の許可指令がおりた。同年9月から築港工事にとりかかったのである。

創業当時の会社浚渫船は第一鷲丸で、これと人工鋤簾(じょれん)掘土船を併用して工事を進めたが、水深が深くなるにつれて後者は役に立たなくなった。そこで明治26年7月、日本土木会社所有の浚渫船を借り受け第二鷲丸と命名し、さらに同年11月には同社から購入した船に洞海丸と命名、この3隻によって浚渫を行った。

明治27年には防波堤300間以上、水深干潮面下10尺以上の施工完了となり、洞海湾内に300トン級の船舶が出入り可能となった。


第二洞海丸

明治27年(1894)から28年にかけての日清戦争によって28年の下半期から30年にかけての日本経済は特需ブームに沸いた。こうしたブームは洞海湾周辺にも工業勃興の機運となって盛り上がりをみせた。

日清戦争後の造船、機械、車両、化学等重工業の発達を支えるには鉄が欠くことのできないものであった。明治30年に、官営製鉄所が石炭調達の利便性を認められて、八幡村に設立されることとなった。


第三洞海丸

八幡製鉄所建設工事が始まると洞海湾を囲む若松・八幡・戸畑の3町村は急に活況を呈した。当社は葛島周辺を8,375坪(約27,690平方メートル)にわたって埋め立て、同時に戸畑村汐井崎地先海面に貯炭場として一文字の形をした島を造成した。浚渫した土砂でつくられた面積3,000坪(約9,900平方メートル)の島で俗に一文字島と呼ばれたが、大正15年の地先海面埋立工事で埋立地と一体化し消滅した。


第四洞海湾丸

洞海湾沿岸に工業が勃興するにつれて、港湾設備の整備拡張が急がれ、第一次拡張工事が始まった。

工事を完成させるための機動力として、明治32年8月、バケット式浚渫船「第二洞海丸」と「第三洞海丸」をイギリスに発注し、また翌年9月にはサンドポンプ式浚渫船「第四洞海丸」をイギリスに発注し、その到着をまって34年から順次工事に投入していった。

そして39年3月、幅員約13.6メートル、水深干潮面下約6メートルの航路が完成した。

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