わかちく史料館Wakachiku Museum

常設展示のご案内

史料館の展示物を順を追ってご紹介していきます。

工事現場で作業員を指揮する技師
工事現場で作業員を指揮する技師

若松町は地形上用水に乏しかったが、年々用水不足は深刻化し、工業の発展を阻害するだけでなく、公衆衛生および防火上から上水道敷設の必要に迫られるようになっていた。そうした折り八幡製鉄所は、事業拡張計画の一環として用水を遠賀川に求める上水道の敷設を計画した。当社と九州鉄道は共同して上水道分水を八幡製鉄所に申し入れ、一昼夜8400立方メートルを限度として分水してもらうこととなった。

明治45年(1912)八幡製鉄所分水の上水道工事が、若松町の手で完成した。若松の上水道設置は九州では長崎市に次ぐもので、大正2年末の戸数約6200に対して60%の普及率を示した。

大正期の若松港
大正期の若松港

第一次世界大戦(1914-1918)を契機として日本は輸入超過国から輸出超過国に転じ、鉱業・製鋼・造船業などはますます繁栄し、日本の資本主義は急速な発展を遂げた。筑豊石炭業界も大戦景気を受けて好況を謳歌した。

大戦が勃発する前の大正3年(1914)4月1日若松町は市制を敷いた。当時の人口は37,393人であった。

大正7年1月に洞海湾国営問題が起きた。地元の有志や福岡県内の有力者が中央に働きかけて、若松港を西日本の代表的国港とするための運動を展開したが、近接の門司港との競合となり、同8年門司港が国港と議会で決定された。

ベンチマーク
ベンチマーク
(明治時代に洞海湾の港湾工事に使用され、
今でも本店敷地内に残る)

わが国に「大戦景気」をもたらした第一次世界大戦は、大正7年11月に終了、その直後に反動不況、6ヶ月後には戦後好況が訪れたものの、同9年春ごろから戦後恐慌が経済界を襲った。

不況のさなかの9年12月、大工場誘致を目的とした沿岸の埋立、すなわち第4次拡張工事を実施した。同10年6月、若松港は第二種重要港湾の選定を受けた。戦後の工業の勃興にともなって洞海湾沿岸が重要工業地帯として認められたわけである。この時期を境にそれまで埋立に関しては厳しい不許可の姿勢を貫いてきた政府が、工場用地の需要拡大に対応して規制緩和、埋立許可の方針を打ち出した。

一文字海岸工事現場
一文字海岸工事現場

一文字海岸工事現場
大正11年11月10日、戸畑町(大正13年市制施行)の一文字島と汐井崎地先海面埋立および岸壁築造工事が始まった。大正15年5月31日に既定計画をおよそ竣工し、追加工事および残務整理は6月30日をもって全部終了した。この大工事の竣工調書はおおむね以下のとおりである。

総埋立面積:7,303坪(約24,140平方メートル)
一文字島実測面積:3,159坪(約10,440平方メートル)
施工総面積:10,462坪(約34,580平方メートル)
水深20尺(約6m)岸壁の延長・・・99間(約180メートル)

戸畑一文字海岸埋立図
戸畑一文字海岸埋立図

これと並行して、若松市では海岸整備を行うとともに、3000トン級汽船の横付けができる海陸連絡工事を大正10年12月に完成していた。

一文字岸壁
一文字岸壁
竣工した一文字埠頭
竣工した一文字埠頭

竣工した一文字埠頭 完成後の一文字埠頭の埋立地は、適当な利用者がなく、雑草が茂るままに放置されていたが、昭和4年戸畑冷蔵株式会社が設立され、臨港鉄道も敷設された。同年12月には、市営一文字埠頭の大部分の貸与を条件に誘致された日本水産の前身である共同漁業株式会社が下関から移ってきた。

こうして戸畑は、わが国有数の一大漁港としての発展が約束されるようになった。